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津田梅子 ─ 6歳でアメリカに渡った女性が築いた64年
2024年、新五千円札の肖像になった津田梅子。
6歳のときに岩倉使節団に随行してアメリカへ渡り、11年間の留学を経て帰国した、日本初の本格的女子留学生のひとりです。
「女子も男子と同等の高等教育を受けるべき」。
そう確信した彼女は、明治の日本に女子英学塾(現・津田塾大学)を作りました。
その64年の物語を、静かにたどってみます。
1. 江戸生まれ、新政府の家臣の娘(1864〜)
元治元年(1864年)、津田梅子は江戸(現在の東京都新宿区)に生まれました。
父津田仙は、農学者であり、明治政府の開拓使にも関わった人物です。
明治4年(1871年)、政府は近代化のために岩倉使節団を欧米に派遣します。
このとき父・仙は、6歳の梅子をアメリカ留学組に応募させました。
当時の日本では、前例のない判断でした。
明治政府が募集した最初の女子留学生5名のうちの最年少が、梅子です。
2. 11年間のアメリカ留学(1871〜1882)
明治4年(1871年)11月、梅子はサンフランシスコ経由でワシントンD.C.に到着します。
ジョージタウンのランマン家に預けられ、家族の一員として育てられました。
ランマン夫妻は梅子に深い愛情を注ぎ、英語・ピアノ・聖書・数学を教えます。
小学校・中学校(高等学校相当)を順に卒業。
11年間のアメリカ生活で、梅子は日本語をほとんど忘れるほど、現地に馴染んでしまいました。
明治15年(1882年)、17歳で帰国した梅子は、日本語が話せない日本人として日本社会に戻ることになります。
3. 帰国後の苦悩 ── 居場所がない(1882〜)
帰国した梅子を待っていたのは、自分が想像もしなかった日本の現実でした。
- 女性の高等教育の場が、ほとんどない
- 自分が学んだ英語と科学の知識を活かせる職が、ない
- 結婚して家庭に入ることが、当然視されている
梅子は華族女学校(後の学習院女子部)の英語教師として働きはじめます。
ただ、「女性が職業人として自立する」という発想自体が、当時の日本にはまだ薄い。
彼女は、孤独でした。
4. 再渡米とブリンマー大学(1889〜1892)
明治22年(1889年)、25歳の梅子は再渡米します。
ブリンマー大学で生物学を 3 年間学びました。
当時のアメリカは、女子教育の最先端。
梅子は日本の女子教育の現状を変えるための知識と人脈を、ここで蓄えていきます。
帰国するときには、もう決まっていました。
自分で学校を作る。
5. 女子英学塾の創設(1900)
明治33年(1900年)、35歳の梅子は東京・麹町に女子英学塾を開きます。
これが現在の津田塾大学の起源です。
最初の学生は、たった10名。
教室は借家の一室。
教員は梅子自身を含めて数名のみ。
それでも梅子は、「少人数でも本物の教育を行う」という方針を貫きます。
英語を中心に据えながら、女性が自分の頭で考え、自分の言葉で語れることを目指した教育でした。
6. 64年での死(1929)
昭和4年(1929年)8月、津田梅子は鎌倉で 64歳の生涯を閉じます。
晩年は病に苦しみながらも、女子英学塾の運営と学生の指導に関わり続けました。
生涯独身を貫いた女性が、明治・大正・昭和の3つの時代の女子教育の土台を作って去った。
そういう人生でした。
静かな余韻
津田梅子が世に送り出した卒業生たちは、その後の日本の女性教育・女性参政権運動・女性研究者育成に、それぞれ深く関わっていきます。
6歳でアメリカに送られたひとりの少女が、半世紀後には、日本の女性たちの選択肢をひとつ増やしていました。
新五千円札の肖像に彼女が選ばれた意味は、ここにあるのだと思います。
💬 本日のひとこと
> Strive for the best, do your best.
梅子が生徒に好んで伝えた英語の言葉。
「最善を目指し、最善を尽くせ」という意味です。
書簡や講演の中に複数記録が残っており、彼女の教育方針を最も端的に表す一行です。
もう少し深く知りたい人へ
- 小学館版 学習まんが人物館 津田梅子 — 子どものころの伝記漫画を、新五千円札の人物として読み直すと別の景色が見えます
- 古川安『津田梅子 科学への道、大学の夢』(東京大学出版会) — 生物学者としての梅子に光を当てた評伝
調べたら面白かったので、書いておきますね。




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