福澤諭吉 ─ 「天は人の上に人を造らず」と書いた66年

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福澤諭吉 ─ 「天は人の上に人を造らず」と書いた66年

2024年7月までの 40 年間、一万円札の肖像だった福澤諭吉。

学校で習う「慶應義塾の創設者」「学問のすすめの著者」という肩書きの裏に、66年の物語があります。

中津藩の下級武士の家に生まれた少年が、3度の渡米と1度の渡欧を経て、近代日本の精神を作る。

その軌跡を、できるだけ静かにたどってみます。


1. 中津藩の下級武士の家に生まれて(1835〜)

天保5年(1835年)、福澤諭吉は大阪の中津藩蔵屋敷で生まれました。

父は下級武士。諭吉が 1 歳のときに亡くなります。

家族は中津(今の大分県)に戻り、母の手で育てられました。

身分制の重い藩の中で、下級武士の家に育った少年は、生まれた家で人生がほとんど決まる封建制の理不尽さを早くから感じていきます。

のちの「天は人の上に人を造らず」の出発点は、この体験にあります。


2. 緒方洪庵 適塾での蘭学修行(1855〜)

20 歳のとき、諭吉は大阪の緒方洪庵が主宰する適塾に入ります。

当時の蘭学(オランダ語を通じて入ってきた西洋の医学・科学)は、最先端の知を学ぶいちばんの場所でした。

適塾の塾頭まで務めた諭吉は、のちに「わが生涯で最も勉強した時期」と回想しています。

オランダ語の医学書を、辞書を引きながら読み解く日々。

彼の知の土台は、ここで作られました。


3. 横浜で英語に出会う(1859〜)

安政6年(1859年)、25 歳の諭吉は横浜に行きます。

そこで彼は、自分が学んできたオランダ語が、世界でほとんど通じないという事実に直面します。

これからの世界の言語は英語だ。

ものすごい速さで、彼は切り替えました。

この柔らかさが、福澤諭吉の生涯を貫く特徴です。

翌万延元年(1860年)、咸臨丸でアメリカへ。

さらに文久元年(1861年)、ヨーロッパを横断する遣欧使節団にも参加します。

3度の渡米と1度の渡欧を経験した日本人は、当時ほとんどいませんでした。


4. 慶應義塾の創設(1858〜)

すでに安政5年(1858年)、諭吉は江戸の中津藩中屋敷で蘭学塾を開いていました。

これが、のちの慶應義塾の起源です。

慶応4年(1868年)、戊辰戦争(旧幕府軍と新政府軍の内戦)の最中、上野でも戦闘が続いていました。

そのなかで、諭吉は授業を止めずに学問を続ける選択をします。

塾名「慶應義塾」が定まったのも、この年のこと。

明治政府で官職に就くこともできた諭吉は、生涯を民間人として教育に専念することを選びます。

「官にあらず、民に立つ」。

この決断は、ここで下されました。


5. 「学問のすゝめ」と『文明論之概略』(1872〜)

明治5年(1872年)、諭吉は『学問のすゝめ』初編を出します。

> 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり

冒頭のこの一文は、340 万部以上売れました。当時の日本の人口の、およそ 10 人に 1 人が手にした計算になります。

明治期日本における、最大級のベストセラーのひとつでした。

3 年後の明治8年(1875年)には『文明論之概略』を出版。

西洋文明と日本文明を比較し、「日本がどう近代化すべきか」を体系的に論じた本です。

教育者であり、社会思想家でもある。

諭吉の本業は、ここに見えます。


6. 66年での死(1901)

明治34年(1901年)2月3日、福澤諭吉は東京で 66歳の生涯を閉じます。

最晩年は脳出血の後遺症と闘いながら、それでも執筆と慶應義塾の運営に関わり続けました。

慶應義塾は、彼の死後も日本の私学の象徴として続いています。

諭吉が蒔いた種は、150年以上経った今も、毎年新しい学生を世に送り出しています。


静かな余韻

福澤諭吉は、官に取り込まれず、民の側から日本を変えようとした人でした。

彼が書いた「天は人の上に人を造らず」は、150年後の日本でも、まだ完全には実現していないテーマです。

新一万円札の肖像が渋沢栄一に変わった今、諭吉の名前を聞く機会は減るかもしれません。

ただ、慶應義塾と『学問のすすめ』は、彼の名前を今後も日本に残し続けます。


💬 本日のひとこと

> 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず

『学問のすゝめ』初編(明治5年/1872年)の冒頭の一文。

本人の著書として実物が現存し、岩波文庫等で今も読むことができます。

明治の若者から現代の大学生まで、150年にわたって読み継がれている言葉です。


もう少し深く知りたい人へ

調べたら面白かったので、書いておきますね。

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