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与謝野晶子 ─ 「君死にたまふことなかれ」と書いた歌人64年
歌人・与謝野晶子。
1904 年、日露戦争のさなか、雑誌『明星』に反戦詩を発表した女性。
「君死にたまふことなかれ」── 戦地の弟へ、姉が書いた、たった一行。
明治の世で、これを書くにはどれだけの勇気が必要だったか。
12 児の母にして、5 万首を超える歌を残した、64 年を静かにたどります。
1. 堺の和菓子屋に生まれて(1878〜)
1878 年、大阪・堺の老舗和菓子屋「駿河屋」の三女として、晶子は生まれました。
本名は鳳志よう(ほう・しよう)。
父は厳格、母は優しく、家では商いの帳簿付けを任されたそう。
店の手伝いをしながら、蔵にこもって古典を読みふける少女でした。
源氏物語、枕草子、新古今和歌集 ── 平安の歌のリズムが、彼女の身体に染み込んでいったのです。
15 歳のとき、堺女学校に入学。
ここで西洋文学にも出会い、漢詩・和歌・西洋の詩を縦横に読み比べる、当時としては破格の感性が育っていきます。
2. 与謝野鉄幹との出会い(1900〜)
22 歳、晶子は雑誌『明星』に投稿を始めます。
主宰は 与謝野鉄幹(本名・寛)。
当時の鉄幹は妻子持ちでしたが、晶子は彼の歌に強く惹かれていきました。
1901 年、鉄幹と恋愛、上京して結婚(鉄幹は離婚後)。
同じ年、晶子は処女歌集『みだれ髪』を発表します。
> やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君
「自分の柔らかな肌、燃える血のように熱い情熱に触れもしないで、道徳ばかり説くあなた、寂しくはないの?」
明治の女が自分の肉体を、自分の言葉で歌う ── これは衝撃でした。
保守派から「不道徳」と猛攻撃を受けながらも、晶子の名は一気に広まります。
3. 「君死にたまふことなかれ」(1904)
1904 年、日露戦争。
晶子の弟・籌三郎(ちゅうざぶろう)が、激戦地・旅順攻囲戦に動員されました。
その夏、晶子は雑誌『明星』9 月号に、次の詩を発表します。
> ああをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、
> 末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも、
> 親は刃をにぎらせて 人を殺せと教へしや、
> 人を殺して死ねよとて 二十四までを そだてしや。
そして詩はこう続く。
「すめらみことは戦ひに おほみづからは出でまさね…」
(天皇は戦に自ら出てこないではないか)
これは当時、完全な「乱臣」発言でした。
保守派から「皇室を侮辱した」と猛批判。
それでも晶子は撤回せず、「歌は心のまこと、嘘は書けません」と応じた、と伝わります。
幸い、籌三郎は無事に帰還しました。
そして詩は文学史に残る 反戦詩の代表になります。
4. 12 児の母として、訳者として(1910〜)
晶子は鉄幹との間に 12 人の子を産みました(うち 2 人は夭折)。
夫・鉄幹はのちに歌人として勢いを失い、晶子が一家を経済的に支える立場に。
彼女が選んだ仕事は、源氏物語の現代語訳でした。
1912 年、夫のヨーロッパ留学費用を稼ぐため、第一回の訳に着手。
その後 2 度書き直し、生涯 3 度の現代語訳を残します。
これは今も「与謝野源氏」として読み継がれています。
子どもをあやしながら、家計簿をつけながら、夜に古典を訳した女性。
「家事と歌は両立する」を実践した、明治・大正・昭和の主婦の先駆け。
5. 教育者・社会運動家として(1921〜)
1921 年、文化学院の創立に参加。
日本初の男女共学の学校で、晶子は国語・古典の教師を務めました。
平塚らいてう・伊藤野枝らと並んで、婦人参政権運動も支持。
ただし、彼女の立場は「母性主義」と「自立主義」のあいだで揺れ続けました。
理論よりも、実生活で 12 人を育てた経験から発する言葉に、説得力があったのです。
晩年は脳溢血で倒れ、それでも歌を詠み続けました。
6. 64 年の生涯(〜1942)
1942 年 5 月 29 日、東京・荻窪で永眠、64 歳。
日中戦争のさなか、戦時下の窮乏のなかでの死でした。
夫・鉄幹は彼女より 7 年早く永眠しています。
晶子は最後まで「鉄幹の妻」でいました。
若いころ「不道徳」と叩かれた歌人が、家族を最後まで守った母として生涯を閉じる。
その逆説に、明治の女の強さがあるのかもしれません。
静かな余韻
「君死にたまふことなかれ」
戦地の弟へ送った、姉のたった一行の詩。
当時の日本で、これを書くには命懸けの覚悟が必要でした。
そして同じ女性が、12 人の子を育て、源氏物語を 3 度訳し、64 歳まで詠み続けた。
「やは肌のあつき血汐」を歌った若き日の晶子と、
「親は刃をにぎらせて 人を殺せと教へしや」と詠んだ姉、
そして家計簿をつけながら源氏物語を訳した妻と母。
すべて同じ人なのです。
明治の女、与謝野晶子。
情熱と理性と母性が、別々のものではなかった。
そんな生き方が、令和の今も、誰かを少しだけ強くするのかもしれません。
💬 本日のひとこと
> 君死にたまふことなかれ
1904 年 9 月、雑誌『明星』に発表。
弟・籌三郎が日露戦争・旅順攻囲戦に従軍したことを案じて書かれました。
「乱臣」と批判されながら撤回しなかった晶子の覚悟が、文学史に残る反戦詩を作ったのです。
もう少し深く知りたい人へ
- 与謝野晶子『みだれ髪』(新潮文庫) ── 22 歳の歌集、明治の女が自分の肉体と情熱を歌った衝撃の処女作。今読んでも色あせない
調べたら面白かったので、書いておきますね。



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