手塚治虫 ─ 「漫画の神様」60年

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手塚治虫 ─ 「漫画の神様」60年

鉄腕アトム、ブラック・ジャック、火の鳥、リボンの騎士、ジャングル大帝。

日本のストーリー漫画の構造、TV アニメの制作方式 ── 21 世紀の日本コンテンツ産業のすべての出発点。

医師免許を持つ漫画家。

60 年の生涯で約 700 作品、原稿用紙 15 万枚。

入院中も描き続け、最期の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ」と伝わります。


1. 大阪・宝塚の医師家系に(1928〜)

1928 年(昭和 3 年)11 月 3 日、大阪府豊中市生まれ。

本名・手塚治(おさむ)。

父・手塚粲(ゆたか)は会社員でアマチュア映画作家、母・文子は教育熱心な女性。

5 歳のとき、家族で兵庫県宝塚市へ。

すぐ近くに宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)があり、母に連れられて何度も観劇。

華麗なステージ、男装の麗人、ロマン主義的な物語 ── これが後年の 「リボンの騎士」の源泉になります。

小学校時代、いじめに遭った逸話が有名です。

当時珍しい眼鏡をかけ、おとなしく、「治虫(おさむし)」とからかわれた。

本人はそれを開き直り、昆虫の絵を描き、自分の筆名にしてしまうことで応えました。

これが「手塚治虫」の由来。


2. 大阪大学医学部、漫画家デビュー(1946〜1953)

1945 年、敗戦。

17 歳の手塚は大阪大学附属医学専門部(後の大阪大学医学部)に進学。

医学を志す一方、戦前から続けていた漫画の創作も止めません。

1946 年、新聞少国民新聞で『マアチャンの日記帳』が連載デビュー。

1947 年、『新宝島』(酒井七馬・原作、手塚・作画)が 40-60 万部の大ヒット。

これは戦後日本の出版界に衝撃を与えた赤本漫画ブームの起爆剤でした。

『新宝島』の革命は、映画的構図にあった。

俯瞰、ローアングル、ズーム、コマ割りで時間を操作する手法。

これらは戦前の漫画にはなく、後の手塚式ストーリー漫画の出発点になります。

医学部を 1951 年卒業、医師免許取得。

ただし、本人は漫画家の道を選び、医師としてはほとんど開業しませんでした。


3. 上京、トキワ荘の影響(1952〜)

1952 年、本格的に上京。

「漫画少年」誌で 『ジャングル大帝』(1950-54)連載。

1952 年、『鉄腕アトム』(連載開始時タイトル『鉄腕アトム大使』)連載開始。

そして 1953 年、東京豊島区椎名町の 「トキワ荘」アパートに入居。

ここに集まった若き漫画家たちが、後の日本漫画界を形作ります ──

  • 藤子不二雄(藤本弘・安孫子素雄)
  • 赤塚不二夫
  • 石ノ森章太郎
  • ちばてつや(隣の桜館)
  • 寺田ヒロオ

手塚は彼らの「神様」「先輩」として崇敬され、影響を与え続けました。

若い藤子・赤塚・石ノ森らは、手塚の作品を熱心に研究したといいます。


4. 虫プロダクション設立、TV アニメ「鉄腕アトム」(1962〜1963)

1961 年、虫プロダクション設立(前身は手塚治虫動画プロダクション)。

日本のテレビアニメ制作の本格的スタートです。

1963 年 1 月 1 日、『鉄腕アトム』TV アニメ放送開始(フジテレビ系)。

これは日本初の 30 分連続テレビアニメ。

最高視聴率40%を記録し、米国 NBC でも放映されました。

問題は制作費でした。

当時の常識では 30 分アニメ 1 話の制作には200 万円以上必要なところを、手塚はスポンサー(明治製菓)から 1 話 55 万円で受注。

結果、赤字を関連商品(鉄腕アトムのお菓子)の権利で補填するモデルを確立。

これが今でも続く日本アニメ業界の低価格制作モデルの原型。

評価は分かれます ── 日本アニメ世界制覇の出発点であると同時に、現場のブラック労働の元凶とも言われる構造の起源。


5. 70 年代、ブラック・ジャック、火の鳥(1973〜)

70 年代前半、手塚は一時的にスランプに陥ります。

劇画ブーム(さいとう・たかをらの暴力リアル路線)に押され、虫プロは1973 年に倒産。

手塚自身も「終わった漫画家」と新聞で書かれる屈辱を味わいました。

しかし 1973 年、『ブラック・ジャック』連載開始(少年チャンピオン)。

無免許の天才医師が法外な報酬で医療を行う物語。

これが大ヒットし、手塚は完全復活。

並行して、ライフワーク『火の鳥』を執筆。

過去から未来まで、人類の輪廻と永遠を描く壮大な叙事詩。

手塚は生涯で 12 編を書き、最終編 構想していた『火の鳥』の続編は未完のまま未完の構想となりました。


6. 60 年の生涯(〜1989)

1988 年末、体調悪化で入院。

診断は胃がん。

それでも病床に原稿用紙とペンを持ち込み、連載を続けようとします。

最期の言葉として娘や周囲が伝えるのは ──

「ぼくはマンガを描き続ける。最後の最後まで」

「頼むから仕事をさせてくれ」

1989 年 2 月 9 日午前 10 時 50 分、東京の病院で永眠。60 歳。

死の直前まで、構想していた『火の鳥』の続編、『ネオ・ファウスト』、『ルードウィヒ・B(ベートーヴェン伝記)』の 3 連載を抱えていました。

葬儀には石ノ森章太郎・藤子不二雄・赤塚不二夫らトキワ荘の弟子たちが参列。

60 年の生涯で 約 700 作品、原稿用紙約 15 万枚を残した男の旅立ちでした。


静かな余韻

「最後の最後まで描き続けたい」

これは漫画への執着というより、「描くことが呼吸だった人」の言葉。

手塚が遺したものは、作品だけではありません。

  • ストーリー漫画の構造(映画的コマ割り、心理描写、長編連載)
  • TV アニメの制作モデル(毎週放送、商品化展開)
  • トキワ荘から続く日本漫画界の系譜
  • アトム → ドラえもん → 任天堂・ジブリ・スタジオピエロ → ジャンプ全盛期 → 現代の異世界転生まで

21 世紀のクールジャパンの 9 割は、手塚治虫から始まっていると言ってもいいでしょう。

あなたが今読んでいるかもしれない『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『進撃の巨人』── そのコマ割りの源流は、すべて 1947 年の『新宝島』にあります。

そして「漫画の神様」と呼ばれた男が、最期まで「まだまだ描きたい」と願っていた。

600 や 700 作品では足りなかった。

「もっと描きたい」── この欲望こそ、創作の本質なのかもしれません。


💬 本日のひとこと

「ぼくはマンガを描き続ける。最後の最後まで」

胃がんで入院中も、原稿用紙にペンを走らせ続けた男の言葉。

60 年で 700 作品を描いてもなお「足りない」と感じた創作欲。

「描かせてくれ」── この一言に、彼の人生のすべてが詰まっています。


もう少し深く知りたい人へ

調べたら面白かったので、書いておきますね。

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