ベートーヴェン ─ 耳が聞こえない作曲家56年

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ベートーヴェン ─ 耳が聞こえない作曲家56年

「ジャジャジャジャーン」の運命交響曲。

全国の小学校卒業式で流れる「歓喜の歌」。

日本では年末に必ずどこかで演奏される「第九」。

これらをすべて作ったルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、20 代後半から徐々に耳が聞こえなくなり、晩年は完全な聾だったといいます。

音が聞こえない作曲家が、人類史上最も偉大な交響曲群を生み出した、56 年の生涯を静かにたどります。


1. ボンの宮廷音楽家の家に(1770〜)

ベートーヴェンは 1770 年、ドイツ西部ボンで生まれました。

正確な誕生日は断定されていませんが、12 月 17 日に洗礼を受けていて、当時は翌日洗礼が普通だったため、16 日ごろの誕生と考えられています。

祖父も父も宮廷音楽家。

父ヨハンは、息子を「第二のモーツァルト」にしたかったらしく、かなり厳しく鍵盤とヴァイオリンを教えました。

夜中にたたき起こして練習させた、という話まで残っています。

7 歳で公開演奏を行い、少年時代から神童として売り出されます。

ただ、家計は楽ではなく、父の飲酒も重かった。

幼いころから音楽は才能である前に、まず生活そのものだったんですね。


2. ウィーンへ、ハイドン・モーツァルトの後継者として(1792〜)

青年ベートーヴェンは宮廷オルガニストネーフェに見いだされ、作曲と演奏の基礎を固めます。

1792 年、22 歳で音楽の都ウィーンへ移住。前年に亡くなったモーツァルトの空席を埋めるように、貴族のサロンで急速に名を上げていきました。

師の一人はヨーゼフ・ハイドン。

ただ、素直な弟子というより、自分の音を押し通すタイプだったようです。

即興演奏のうまさは群を抜き、「あの若者が鍵盤に向かうと部屋の空気が変わる」と言われるほどでした。

作品番号つきのピアノ・ソナタや室内楽も次々に発表。

ウィーンの社交界は、粗野で不器用でも、とにかく圧倒的に才能のあるこの新顔に夢中になっていきます。


3. 「ハイリゲンシュタットの遺書」(1802)

ところが 20 代後半から、耳に異変が出始めます。

高い音が聞き取りにくくなり、会話もつらい。音楽家にとって、いちばん失ってはいけないものです。

1802 年、ウィーン郊外ハイリゲンシュタットで療養中、弟たちに宛てた長い手紙を書きます。

これが有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」。

そこには死を考えたこと、社会から遠ざかりたくなったこと、それでも芸術のために生きると決めたことが記されていました。

絶望の告白なのに、同時に再出発の宣言でもある。

この手紙のあと、ベートーヴェンはより大きく、より激しい作品へ踏み出します。

まもなく始まるのが、第三交響曲「英雄」へつながる中期です。


4. 中期、英雄・運命・田園(1803〜1814)

1803 年から 1814 年ごろまでのベートーヴェンは、まさに爆発期でした。

交響曲なら第 3 番「英雄」、第 5 番「運命」、第 6 番「田園」、第 7 番、第 8 番。

協奏曲ではピアノ協奏曲第 5 番「皇帝」、歌劇ならフィデリオ。

名前を挙げるだけで、音楽史の教科書みたいな時期です。

耳は良くなるどころか、むしろ悪化していました。

それでも作品は、古典派の形式を守りながら、感情の振れ幅も規模もどんどん大きくなる。

交響曲が、宮廷の娯楽から「人間そのものを語る器」に変わったのは、この人のせいだと言っても大げさではありません。


5. 後期、第九交響曲(1818〜1824)

1818 年ごろには、ベートーヴェンはほぼ完全に耳が聞こえない状態になります。

会話には「会話帳」を使い、相手に書いてもらわないと意思疎通ができませんでした。

それでも創作は止まりません。

晩年にはミサ・ソレムニス、後期ピアノ・ソナタ、後期弦楽四重奏曲、そして第九交響曲が生まれます。

第九はシラーの詩「歓喜に寄す」を終楽章に取り込み、交響曲へ合唱を入れるという大仕事でした。

初演は 1824 年 5 月 7 日、ウィーン。

舞台上にいたベートーヴェンは演奏の熱狂に気づかず、歌手のカロリーネ・ウンガーに肩を回されて初めて客席の喝采を見た、と伝えられます。

聞こえない人が、人類史でもっとも有名な「歓喜」を書いた。ここはやはり、何度考えても不思議です。


6. 56 年の生涯(〜1827)

晩年は病気と孤独が重なり、甥カールとの関係にも悩まされました。

それでも作曲はやめず、最後まで新しい音を書き続けます。

1827 年 3 月 26 日、ウィーンで永眠。56 歳でした。

葬儀には2 万人以上が集まったとされます。作曲家一人の死としては異例の規模で、すでに同時代の英雄だったことが分かります。


静かな余韻

耳が聞こえなくなることは、音楽家にとってほとんど世界の終わりです。

でもベートーヴェンは、その終わりの先で、むしろ前より大きな音楽を書きました。

苦悩を消したのではなく、苦悩ごと作品の中へ持ち込んだ。

だから第九の「歓喜」は、軽く明るいだけの喜びではありません。

あれは、しんどさを全部通り抜けたあとにしか出てこない種類の光なんですよね。


💬 本日のひとこと

> Durch Leiden Freude.

1815 年の書簡に残るこの一文は、ベートーヴェンの生涯そのものです。

耳を失っても、家庭に恵まれなくても、人づきあいが不器用でも、最後に音楽を歓喜へ着地させる。

第九の精神を 1 行で言い直すなら、たしかにこれしかない気がします。


もう少し深く知りたい人へ

調べたら面白かったので、書いておきますね。

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