レオナルド・ダ・ヴィンチ ─ 「すべてを知ろうとした」67年

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レオナルド・ダ・ヴィンチ ─ 「すべてを知ろうとした」67年

「モナリザ」と「最後の晩餐」。

小学校の図工室で、誰もが一度は名前を聞いた絵です。

それを描いたレオナルド・ダ・ヴィンチが、画家であると同時に解剖学者・工学者・数学者・植物学者でもあった、というのは意外と知られていません。

イタリア・ヴィンチ村の私生児として生まれた少年が、67年の生涯で約7,200ページのノートを残します。

その物語を、できるだけ静かにたどってみます。


1. ヴィンチ村の私生児として(1452〜)

1452年4月15日、トスカーナ地方の小さな村ヴィンチに、レオナルドは生まれました。

父は公証人セル・ピエロ、母は農民の女性カテリーナ。

ふたりは結婚しなかったので、レオナルドは私生児でした。

母とは早くに別れ、父方で育てられた少年は、自然観察とスケッチに異常な関心を示します。

ある日、レオナルドが描いた絵を父が画家のヴェロッキオに見せたところ、即座に弟子入りが決まった、という逸話が残っています。


2. ヴェロッキオ工房での修行(1466〜1476)

14歳でフィレンツェのアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入ります。

絵画だけでなく、彫刻、金細工、機械設計など、多分野の技術をここで学びました。

伝説的な逸話があります。

師ヴェロッキオの作品『キリストの洗礼』に、レオナルドが天使の一部を描いたところ、ヴェロッキオは自分の腕では弟子に勝てないと知り、絵筆を置いてしまった、と。

真偽は別として、レオナルドの早熟ぶりを今に伝える話です。


3. ミラノ宮廷時代(1482〜1499)

30歳になったレオナルドは、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァに仕えるためにフィレンツェを離れます。

当時のミラノはルネサンス文化の中心地のひとつでした。

ここで彼は、絵画だけではなく、

  • 軍事工学(兵器・要塞の設計)
  • 建築(運河・水門の設計)
  • 解剖学(人体の内部の精密スケッチ)
  • 飛行機械の構想

など、「全方位の天才」の名にふさわしい仕事を一気に展開していきます。

そして 1495 年から 1498 年にかけて、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に『最後の晩餐』を描き上げました。


4. フィレンツェに戻り、『モナリザ』を描く(1500〜1506)

1500年、ミラノ公国がフランス軍に占領された後、レオナルドはフィレンツェに戻ります。

ここで取り組んだのが、世界で最も有名な絵画とされる『モナリザ』。

製作は 1503年から1506年頃とされます。

ただ、実は彼はモナリザを死ぬ直前まで手元に置いて、筆を入れ続けたと言われています。

完成という概念のない画家だったわけです。


5. 解剖と発明 ── 7,200 ページのノート(1480〜1519)

レオナルドが残した手稿(ノートブック)は、現存するだけで約7,200ページ。

内容はこうです。

  • 人体解剖図(実際に死体を解剖して描いた、当時としては禁忌に近い行為)
  • 飛行機械(パラシュートやヘリコプター様の機械の構想)
  • 水流の研究(ダムや運河の設計)
  • 植物の生長理論
  • 音楽の楽器設計
  • 暗号文(鏡文字)で書かれたメモ

絵画は、彼の仕事のほんの一部でした。

ノートからそれが、はっきり見えてきます。


6. フランスでの晩年(1516〜1519)

1516年、フランス王フランソワ1世の招きで、64歳のレオナルドはフランスに渡ります。

クルー城(アンボワーズ近郊)で生活し、王から「わが父」と呼ばれるほど厚遇されました。

1519年5月2日、67歳でクルー城にて永眠。

死の床にも『モナリザ』はまだ手元にあり、フランソワ1世が買い取って、現在ルーブル美術館に収蔵されています。


静かな余韻

レオナルド・ダ・ヴィンチが目指したのは、「画家として上手くなる」ことではなかったように見えます。

彼は、世界そのものを理解しようとした人でした。

絵画も、解剖も、飛行機械も、水流も、すべては「世界はどうできているのか」を知るための手段。

500 年経っても、その姿勢は古びません。


💬 本日のひとこと

> Ostinato rigore

イタリア語で「執拗なる厳しさ」。

レオナルドが好んだ個人の標語として、複数の手稿に書き残されています。

自分への厳しさを、しつこく保ち続けよ。

そう自分に言い聞かせる言葉です。


もう少し深く知りたい人へ

調べたら面白かったので、書いておきますね。

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