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マリー・アントワネット ─ ギロチン台に消えた王妃37年
オーストリア女帝マリア・テレジアの末娘。
14 歳でフランスに嫁ぎ、19 歳でヴェルサイユ宮殿の王妃に。
そして 37 歳、フランス革命のギロチン台で命を落とした女性。
「パンがないなら、お菓子を食べればいいのに」── これは後世の創作と判明していますが、贅沢のイメージだけが残ったのは、革命のプロパガンダだったのかもしれません。
37 年の生涯を、できるだけ静かにたどります。
1. ハプスブルク家の末娘として(1755〜)
1755 年 11 月 2 日、オーストリア・ウィーン。
父・フランツ 1 世は神聖ローマ皇帝、母・マリア・テレジアはハプスブルク家の女帝。
本名はマリア・アントニア・ヨゼファ・ヨハンナ。16 人きょうだいの 15 番目でした。
母マリア・テレジアは強い意志を持つ統治者で、子どもたちを 「政略結婚の駒」として戦略的に育てました。
マリーは生まれた時点で 「フランス王太子と結婚する」という運命が決まっていたのです。
幼少期は明るく社交的、音楽(ハープ)やダンスを愛する活発な少女。
6 歳のときには、シェーンブルン宮殿で 6 歳のモーツァルトと会って遊んだ逸話も。
モーツァルトが転んだとき、マリーが助け起こすと、彼が「結婚してください」と言ったそうです。
2. フランス王太子妃(1770〜)
1770 年 4 月、14 歳のマリーはオーストリアからフランスに送られます。
ライン川の中州で行われた人質交換式 ── 国境で衣服から所持品まですべてフランス式に着替えさせられた。
これが 「アントニア」が「アントワネット」になる儀式でした。
5 月 16 日、ヴェルサイユ宮殿でルイ 16 世となる王太子と結婚。
14 歳と 15 歳の幼い夫婦でした。
ルイは内向的でぎこちない性格、マリーは陽気で社交的。
性格の違いに加え、夫の身体的問題(夫婦関係の問題、後に解消)で 7 年間 不実婚状態が続きます。
これがヨーロッパ宮廷の噂になり、母マリア・テレジアからは「あなたは何のためにフランスにいるのか」という厳しい手紙が届きました。
3. ヴェルサイユの華(1774〜1785)
1774 年、ルイ 15 世死去、ルイ 16 世即位。
マリーはフランス王妃になります。18 歳。
夫ルイ 16 世は政治より錠前作りや狩りが好きな男で、政治判断は重臣に任せていました。
マリーはヴェルサイユの舞踏会・観劇・賭博・ファッションの中心となり、王妃というよりトレンド・セッターになります。
- ローズ・ベルタン(女性デザイナー)と組んだ豪華なドレス
- レオナール(美容師)による高さ 1 メートルの髪型
- プチ・トリアノン宮殿を「自分の城」として独占
母マリア・テレジアからは 「あなたは王妃ではなく、女優になってしまった」と叱られる手紙が届きました。
それでもマリーは止まりませんでした。
若さと権力と退屈の組み合わせは、当時の彼女に自由のはけ口がそれしかなかったのかもしれません。
4. 首飾り事件、革命の影(1785〜1789)
1785 年、首飾り事件。
詐欺師ジャンヌ・ド・ラ・モットが、マリーを騙る偽手紙で枢機卿ロアンから豪華な首飾り(160 万リーヴル)を騙し取った事件。
実際にはマリーは関与していませんでしたが、詐欺師の方が「王妃が首飾りを欲しがった」と主張したため、世論は王妃を非難しました。
マリーが裁判に勝っても、民衆の反感は消えなかったのです。
この時期から 「赤字夫人(Madame Déficit)」「オーストリアの女」と侮蔑されるようになります。
そして 1789 年 5 月、国家財政の破綻を打開するため三部会が招集される。
6 月 17 日、国民議会成立。
7 月 14 日、バスティーユ襲撃── フランス革命勃発。
5. テュイルリー幽閉、ヴァレンヌ逃亡(1791)
革命勃発後、王家はパリに連行され、テュイルリー宮殿に幽閉されます。
1791 年 6 月 20 日深夜、王家はヴァレンヌへの脱出を企てる。
オーストリアへ逃れ、外国軍の支援で革命を鎮圧する計画でした。
しかしヴァレンヌの宿駅で発見、逮捕。
パリへ強制送還されました。
これで王家は 「国民を捨てて逃げた裏切り者」と決定的に見なされます。
1792 年 8 月 10 日、テュイルリー宮殿襲撃で王権停止、王家はタンプル塔に幽閉。
1793 年 1 月 21 日、ルイ 16 世処刑(ギロチン)。
2 か月後、マリーは離されてコンシエルジュリ牢獄へ移送、裁判の準備が始まります。
6. 37 年の生涯(〜1793)
1793 年 10 月 14 日、革命裁判所での裁判開始。
罪状は反逆罪、国庫の浪費、敵国オーストリアと共謀、そして息子ルイ・シャルル(8 歳)への性的虐待という荒唐無稽な告発まで含まれていました。
最後の告発に、それまで冷静だったマリーは涙を流して「私が答えないのは、すべての母親に訴えるからです」と語り、傍聴の女性たちは涙を流したと伝わります。
10 月 16 日朝、有罪確定、ギロチンによる死刑。
髪を切られ、白いドレスを着せられ、荷車で革命広場(現在のコンコルド広場)へ運ばれる。
ギロチン台で死刑執行人サンソンの足をうっかり踏んでしまったマリーは、即座に 「Pardonnez-moi, monsieur, je ne l’ai pas fait exprès.」(ごめんなさい、わざとではありません)と謝罪。
これが、王妃の最期の言葉でした。
午後 12 時 15 分、ギロチンの刃が落ちる。37 歳。
静かな余韻
「お菓子発言」── 「パンがないなら、お菓子を食べればいいのに」── は、現在の歴史学ではマリーの発言ではないことがほぼ否定されています。
ジャン=ジャック・ルソーの著作(1762、マリーがフランスに来る 8 年前)に類似の表現があり、後年、革命派がマリーを貶めるために結びつけたプロパガンダと推測されています。
しかし、「贅沢な王妃」のイメージだけが歴史に残った。
これは現代の SNS 炎上や情報戦にも通じる、情報のステレオタイプの怖さです。
そして処刑台で「足を踏んでごめんなさい」と謝罪する 37 歳の王妃。
死の瞬間まで身についた礼儀作法は、彼女の本当の姿を一瞬見せてくれます。
革命の混乱の中で、彼女は処刑されるべき暴君ではなく、ただ時代に翻弄された一人の女性だったのかもしれません。
息子ルイ・シャルルはタンプル塔で 10 歳で病死。
娘マリー・テレーズだけが釈放され、生き残りました。
💬 本日のひとこと
「Pardonnez-moi, monsieur, je ne l’ai pas fait exprès.」
ギロチン台で執行人の足を踏んでしまった瞬間の謝罪。
最期の言葉が 「ごめんなさい、わざとではありません」── 王妃として身についた礼儀作法は、死の瞬間まで彼女から離れなかったのです。
もう少し深く知りたい人へ
- シュテファン・ツヴァイク『マリー・アントワネット』(角川文庫) ── オーストリア人作家ツヴァイクによる名著。「平凡な性格を非凡な運命が押し潰した」という主題で、マリーの人物像を深く掘る
調べたら面白かったので、書いておきますね。



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