杉原千畝 ─ 「命のビザ」を書き続けた外交官86年

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杉原千畝 ─ 「命のビザ」を書き続けた外交官86年

1940 年、リトアニア・カウナス。

ソ連占領下、ナチス・ドイツから逃げてきたユダヤ難民が、日本領事館の前に殺到した夏。

外務省の許可なく、領事代理・杉原千畝(ちうね)は、約 6,000 人分のビザを書き続けた

本省は「規定違反」として、戦後彼を退職に追い込みます。

「命のビザ」と呼ばれる行動が、世界に知られたのは死の直前でした。

86 年の生涯を、できるだけ静かにたどります。


1. 岐阜の税務署員の家に(1900〜)

1900 年 1 月 1 日、岐阜県・八百津町。

父・好水は税務署員、母・やつは教育熱心な専業主婦。

千畝は次男として生まれました。

父は息子に医者になってほしかった。

しかし千畝は文学・語学が好きで、医大の入試で白紙答案を提出して反抗。

父との縁が切れ、上京して早稲田大学英文科に入ります。

そこで彼が見つけたのは、外務省の留学生試験でした。

ロシア語専攻の留学生を募集中。

合格すれば学費は外務省持ち、卒業後は外交官。

千畝は受験して合格、満州・ハルビン学院でロシア語を 2 年学びます。


2. 外務省、満州での日々(1924〜1939)

ハルビン卒業後、満州国外交部に配属。

対ソ交渉のスペシャリストとして頭角を現します。

ソ連と満州国の北満鉄道譲渡交渉では、ソ連側の弱みを情報網で押さえ、安価で買収を成功させた、という逸話も。

1934 年、最初の妻と離婚、ロシア人女性と再婚するも、これも別離。

1936 年、菊池幸子と再婚 ── これが終生の伴侶になります。

そして 1939 年、ヨーロッパ情勢が不穏のなか、千畝に新しい辞令が下りる。

「リトアニア・カウナス領事代理として赴任せよ」

実は表向きは領事館業務、裏では対ソ・対独情報収集が任務でした。


3. リトアニア・カウナスへ(1939〜1940)

1939 年 8 月、千畝は妻・幸子と 4 人の息子を連れてカウナスに到着。

赴任 2 週間後、ナチス・ドイツがポーランド侵攻 ── 第二次大戦勃発。

ポーランドからユダヤ難民がリトアニアへ大量に流入。

さらに 1940 年 6 月、ソ連がリトアニアを併合

今度はソ連支配から逃れたいユダヤ人が、日本通過ビザを求めて殺到し始めました。

カウナスからシベリア鉄道で日本、そこから米国・南米へ ── これが彼らの唯一の脱出ルート。

日本領事館の前に、毎朝数百人が並ぶようになります。


4. 1940 年 7 月、ビザ発給の決断

1940 年 7 月 18 日朝、領事館の窓を開けた千畝が見たのは、門前に殺到する数百人のユダヤ難民でした。

千畝は本省・外務大臣松岡洋右に電報で許可を求める。

1 度目「却下」、2 度目「却下」、3 度目「却下」

「日本通過の条件を満たさないユダヤ人にビザを出すな」── これが本省の指示でした。

それでも千畝は決断します。

「私には目の前の人を見殺しにできない」

1940 年 7 月 31 日から、約 1 か月、千畝は朝から夜中まで手書きでビザを書き続けました。

妻・幸子は彼の腕をマッサージしながら泣いていた、と回想しています。

ソ連側がカウナス退去を命じた 1940 年 8 月 28 日まで、約 2,140 件(家族込みで約 6,000 人)のビザを発給。

列車のホームでも、窓から手渡しでビザを書き続けたと伝わります。


5. 戦後、外務省退職、商社マンへ(1947〜)

1944 年帰国、敗戦。

1947 年、外務省から告げられたのは「省員整理によりご都合退職を」── つまり事実上の懲罰退職

千畝はその後、川上貿易・東京商事・ニコライ堂事務所などを転々。

ロシア語の語学力で生計を立て、家族を支え続けました。

1968 年、イスラエルのニシュリ氏から「あなたが救った命です」と連絡が入る。

これが、世界が「Sempo Sugihara(杉原・センポ ── 千畝の通称)」を発見し始めた瞬間でした。

1985 年、イスラエル政府は彼に「諸国民の中の正義の人」称号を授与。

日本でようやく評価されたのは、亡くなる前年の 1985 年。


6. 86 年の生涯(〜1986)

1986 年 7 月 31 日、神奈川・鎌倉の病院で永眠、86 歳

彼が最初のビザを書き始めた、ちょうど 46 年後の同じ日でした。

外務省が公式に名誉回復したのは、1991 年。

2000 年、外務省内に「杉原千畝顕彰碑」が建立されました。

死後 14 年経ってからのことです。


静かな余韻

「**私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。

しかし、私には頼ってきた何千という人を見殺しにすることはできなかった**」

晩年のインタビューで、千畝が語った言葉です。

「規定違反」を承知で、6,000 人の命を救った男。

その代償に、外務省を追われ、商社で生計を立て、戦後 40 年間 沈黙したまま亡くなった男。

カウナスの夏、ホテルニューヨーカーのテスラのように、誰の目にも触れず一人で書き続けた1 か月が、世界中の家系を繋いだ。

ビザに救われた人々の子孫は、今約 4 万人以上いるそうです。

千畝は何度もこう書いていたといいます。

「Visa for life ── 生きるためのビザを」


💬 本日のひとこと

> 私には頼ってきた何千という人を見殺しにすることはできなかった

晩年、息子・弘樹氏らに語った言葉として記録されています。

外交官としての規定と、目の前の人の命 ── どちらを取るか問われたとき、千畝は迷わず後者を選びました。


もう少し深く知りたい人へ

調べたら面白かったので、書いておきますね。

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