宮沢賢治 ─ 生前ほぼ無名だった詩人の37年

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宮沢賢治 ─ 生前ほぼ無名だった詩人の37年

『雨ニモマケズ』『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』。

学校の教科書で誰もが一度は出会う、宮沢賢治の作品群です。

ただ、これらが生前にはほとんど読まれていなかったことは、意外と知られていません。

岩手県花巻の農家を支援する 1 人の青年として 37 歳で死んだ男が、死後に国民的詩人として世に出ていく。

その物語を、静かにたどってみます。


1. 花巻の質屋の長男として(1896〜)

明治29年(1896年)、宮沢賢治は岩手県花巻町(現・花巻市)の裕福な質屋の長男として生まれました。

家業は質屋・古着商。地元の貧しい農家から品物を預かり、利息を取って商売をしていました。

賢治は幼いころから、家業に対する違和感を抱えていたとされます。

貧しい農家から利益を得る商売と、自分の目の前にいる農民の苦しさ。

それが、彼の中ではどうしても結びつきませんでした。


2. 盛岡高等農林学校(1915〜1918)

19歳で盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で入学。

地質学・土壌学・農芸化学を学びます。

「農民を科学で助けたい」。

それが、彼の学問の動機でした。

在学中、賢治は法華経に深く傾倒します。

浄土真宗を信仰する家との対立から、家族と精神的に距離が広がっていきました。


3. 上京と帰郷(1921)

大正10年(1921年)、25歳の賢治は突然家出して東京へ。

国柱会(日蓮系の宗教団体)に身を寄せ、書きまくる毎日を 7-8 ヶ月続けます。

本人は手紙で「1ヶ月で 3,000 枚書いた」と書き残しており、短期間に大量の原稿が生まれました。

この時期の原稿が、のちの『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』の原型になります。

しかし妹トシの病状悪化を聞き、賢治は花巻に帰郷します。

妹の看病とともに、花巻農学校の教師として勤務を始めました。


4. 農学校教師時代(1921〜1926)── 人生で最も活発な時期

花巻農学校で 4 年半、賢治は教師を務めました。

生徒に演劇を見せ、楽器を教え、農業実習に同行する。

普通の教師ではありません。

この時期に出版されたのが、

  • 『春と修羅』(1924年、自費出版の詩集)
  • 『注文の多い料理店』(1924年、童話集)

ところが、ともにほとんど売れず、評価もされませんでした。

詩集『春と修羅』はわずか 1,000 部が刷られ、大部分が売れ残ったと言われています。


5. 農民とともに ── 羅須地人協会(1926〜1928)

大正15年(1926年)、賢治は教師を辞め、自ら農民として生きる選択をします。

花巻郊外に移住し、羅須地人協会を設立。

農民に農業技術・科学・芸術を教える私塾でした。

この時期に書かれたのが『農民芸術概論綱要』。

冒頭の一節は、こうです。

> 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

しかし羅須地人協会は、わずか 2 年で活動停止。

賢治は過労と肺結核で倒れます。


6. 37歳での死(1933)

昭和8年(1933年)9月21日、宮沢賢治は花巻の自宅で 37歳の生涯を閉じます。

死の直前、彼は枕元の手帳に 『雨ニモマケズ』を鉛筆で書き残していました。

> 雨ニモマケズ

> 風ニモマケズ

> 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

> 丈夫ナカラダヲモチ

> ……

> サウイフモノニ

> ワタシハ ナリタイ

これは発表のために書かれた詩ではなく、自分への祈りのような言葉として書きとめられた、ただのメモでした。


静かな余韻

宮沢賢治は、生前ほぼ無名でした。

手帳の片隅に書かれた『雨ニモマケズ』が、死後に弟・清六によって発見されたのは、彼の死後 1 年ほど経ってからです。

そこから少しずつ、賢治の作品は世に出ていきました。

生きている間には読まれなかった人が、死後 90 年経っても読まれ続けている。

時間というものの不思議が、賢治には特に色濃く残っています。


💬 本日のひとこと

> 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

『農民芸術概論綱要』(大正15年/1926年頃)に書かれた一節。

本人の遺稿として手書き草稿が現存し、現在も宮沢賢治記念館等で見ることができます。

全体の幸福と個人の幸福を切り離さないという、賢治の生涯のテーマを表す一行です。


もう少し深く知りたい人へ

調べたら面白かったので、書いておきますね。

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