ページコンテンツ
ネルソン・マンデラ ─ 27年の獄中から大統領になった95年
南アフリカでアパルトヘイト(人種隔離政策)と闘い、27 年間を獄中で過ごし、釈放後にその国の初の黒人大統領になった男。
1993 年ノーベル平和賞、95 年の生涯を静かにたどります。
1. テンブ族首長家に生まれて(1918〜)
1918 年 7 月 18 日、南アフリカ東部のムベゾ村。
マンデラは、テンブ人の王族につながる家に ロリフラフラ・マンデラとして生まれました。意味は「木の枝を引っ張る人」、転じて「いたずら者」に近いと言われます。
父は村の首長を務めたガドラ・ヘンリー・ムパカニスワ、母はノセケニ・ファニー。
7 歳でメソジスト系の学校に入ったとき、教師から英語名のネルソンを与えられました。植民地時代の南アフリカでは、黒人の子どもに英語名をつけることが珍しくなかったんですね。
9 歳で父を亡くしたあと、テンブの摂政ジョングィンタバのもとで育てられます。
そこで首長会議のやり取りを見て、「人を押さえつけるのではなく、まず話を聞く」という政治の形を学んだと、のちに本人は回想しています。
2. 弁護士となり、ANC 入党(1944〜)
若いマンデラはフォートヘア大学に進学しますが、学生自治会をめぐる抗議で退学。
その後ヨハネスブルグへ移り、炭鉱の警備員や法律事務所の clerk として働きながら勉強を続け、南アフリカ大学で学士号を取り、さらにウィットウォータースランド大学で法学を学びました。
1943 年にアフリカ民族会議(ANC)へ参加。
翌 1944 年にはANC 青年同盟の結成に加わります。中心にいたのはウォルター・シスルやオリバー・タンボたち。年長の穏健派だけでは、白人政権の差別は変えられない。そう考えた若者たちでした。
1952 年、マンデラとタンボはヨハネスブルグで黒人による最初の弁護士事務所として知られる事務所を開設します。
通行証の取り締まりや立ち退きに苦しむ人たちが、列を作って相談に来たそうです。法廷で一人ずつ救う仕事が、そのまま政治運動につながっていきました。
3. シャープビル虐殺、武装闘争へ(1960)
1960 年 3 月 21 日、シャープビル虐殺が起きます。
通行証制度に抗議する非武装の群衆に警察が発砲し、69 人が死亡。背中を撃たれた人も多く、世界に衝撃が広がりました。
この事件をきっかけに ANC は非合法化。
マンデラは、それまでの非暴力だけでは国家の暴力に対抗できないと考え、深い葛藤の末に 1961 年、武装組織ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)を共同で立ち上げます。
ただし最初に選んだのは、無差別な攻撃ではなく送電施設や政府施設への破壊工作でした。
市民の命を奪う内戦にはしたくない。その線引きは、獄中に入る前のマンデラが最後まで意識していた部分でもあります。
4. 終身刑、ロベン島の獄中27年(1962〜1990)
1962 年 8 月 5 日、マンデラは逮捕されます。
さらにリヴォニア裁判で国家転覆の共謀などを問われ、1964 年 6 月、終身刑。
法廷で語った「私は民主的で自由な社会という理想のために生き、必要ならそのために死ぬ覚悟がある」という演説は、世界史に残りました。
収監先はロベン島。
ここで 18 年、石灰岩採石場での重労働、手紙は年に数通、本も厳しく制限される生活を送ります。
その後、1982 年にポルスムーア刑務所、1988 年にヴィクター・フェルスター刑務所へ移され、合わせて27 年以上を獄中で過ごしました。
けれど、彼は牢の中で小さくなりませんでした。
囚人仲間に法律や政治を教え、看守とも対話し、世界では「Free Nelson Mandela」の声が広がっていく。南アフリカで最も有名な囚人は、外に出る前からすでに国家を動かす存在になっていたんですね。
5. 釈放、初の自由選挙、大統領就任(1990〜1999)
1990 年 2 月 11 日。
F・W・デクラーク大統領の決断で、マンデラは釈放されます。ケープタウン近郊の刑務所から、拳を上げて歩き出す映像は世界に流れました。
その後の南アフリカは、すぐ平和になったわけではありません。
白人政権側、ANC、ズールー系勢力のあいだで暴力も続きました。それでもマンデラは、報復ではなく交渉を選びます。
1993 年にはデクラークとともにノーベル平和賞を受賞。
1994 年 4 月、南アフリカで初めて全人種が参加する総選挙が行われ、ANC が勝利。
5 月 10 日、マンデラは南アフリカ初の黒人大統領に就任しました。
在任は 1999 年まで 1 期 5 年だけ。権力にしがみつかず、次の世代へ渡したところまで含めて、彼らしい政治だった気がします。
6. 95 年の生涯(〜2013)
退任後のマンデラは、マンデラ財団を通じて教育や子どもの支援、HIV/AIDS 啓発に力を注ぎました。
2004 年には公の活動から徐々に退きますが、その存在自体が南アフリカの良心のように扱われ続けます。
2013 年 12 月 5 日、ヨハネスブルグの自宅で永眠。95 歳でした。
国葬には100 か国以上の元首・首脳級が参列し、南アフリカだけでなく、20 世紀そのものを見送るような空気があったと報じられました。
静かな余韻
27 年の獄中を生きた人が、出てきて最初に選んだ言葉が復讐ではなく和解だった。
ここが、マンデラという人物のいちばん不思議なところかもしれません。
もちろん、怒りが消えたわけではなかったはずです。
それでも彼は、白人支配を今度は黒人支配で塗り替える道ではなく、同じ国で生き直す道を選んだ。
1995 年、ラグビー・ワールドカップで白人の象徴と見られていた代表チームを大統領として応援した場面は、その象徴として何度も語られます。
勝つことより、壊れた国をもう一度つなぎ直すこと。
27 年という数字の重さを思うと、その選択だけで十分に歴史的です。
💬 本日のひとこと
> Education is the most powerful weapon which you can use to change the world.
27 年牢屋にいた人が、「世界を変える最強の武器」を銃でも権力でもなく教育だと言う。
この言葉の重みは、教室の外で政治と暴力を見続けた人だからこそ出るんでしょうね。
人を支配するより、自分で考えられる人を増やすほうが強い。マンデラは最後まで、そこに賭けていたんだと思います。
もう少し深く知りたい人へ
調べたら面白かったので、書いておきますね。



コメント