ページコンテンツ
北里柴三郎 ─ 細菌学で世界を変えた78年
2024年、新千円札の肖像になった北里柴三郎。
ノーベル賞候補にもなった世界的な細菌学者でありながら、日本国内では福澤諭吉や渋沢栄一ほど名前が浸透していません。
熊本県阿蘇の小さな村に生まれた少年が、ベルリンで世界初の破傷風菌純粋培養を成功させ、帰国後は伝染病の研究と医学教育に半生をかける。
その78年の物語を、静かにたどってみます。
1. 阿蘇の山村に生まれて(1853〜)
嘉永5年(1853年)、北里柴三郎は熊本県阿蘇郡小国村(今の小国町)に生まれました。
父は庄屋(村のリーダー役、年貢の取りまとめなどを担う)。地元では裕福な家でした。
少年時代の柴三郎は、体が大きく、リーダー気質。
当初は軍人を志していましたが、両親の反対で医師の道に進みます。
2. 東京医学校から内務省衛生局へ(1875〜1885)
22歳の柴三郎は、東京医学校(後の東京大学医学部)に入学します。
卒業後は内務省衛生局に勤務し、公衆衛生の現場に関わりました。
当時の日本では、コレラや赤痢などの伝染病で年間数万人が死亡していました。
細菌の研究で、多くの命が救えるかもしれない。
この確信が、彼を細菌学の道に押し出します。
3. ベルリン留学とコッホ門下(1886〜1892)
明治19年(1886年)、柴三郎は内務省の派遣でベルリンへ留学。
当時の世界最高の細菌学者ロベルト・コッホの研究室に入ります。
ここで柴三郎は、世界に衝撃を与えました。
明治22年(1889年)、破傷風菌の純粋培養(他の菌が混じらない状態で 1 種類だけ増やすこと)に世界で初めて成功。
さらに血清療法(免疫を持った動物の血液から治療薬を作る方法)を確立し、破傷風の治療法を体系化します。
この成果は、コッホ研究室の同僚エミール・フォン・ベーリングとの共同研究としてもまとめられ、ベーリングはのちにこの業績で第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞します。
柴三郎自身もノーベル賞候補に挙がりましたが、共同受賞には至りませんでした。
惜しい、と言うほかありません。
4. 帰国後の伝染病研究所(1892〜)
明治25年(1892年)、柴三郎は帰国します。
ところが当時の日本には、世界水準の細菌学を行える場所がありませんでした。
それを聞いた福澤諭吉らが資金援助に動き、伝染病研究所を設立。
柴三郎は初代所長に就任します。
ここから先の研究は、加速していきます。
- 明治27年(1894年)、香港でのペスト菌発見(共同発見論あり)
- 国内のペスト・コレラ・赤痢対策を主導
- 弟子の志賀潔が赤痢菌を発見
- 弟子の野口英世を米国へ送り出す
弟子たちもまた、世界レベルの研究者になっていきました。
5. 北里研究所と慶應義塾大学医学部の創設(1914〜)
大正3年(1914年)、伝染病研究所が文部省に移管された際、柴三郎はこれに反発して辞職します。
「学問の独立」を掲げ、自費で北里研究所を立ち上げました。
その後、福澤諭吉の遺志を継いで慶應義塾大学医学部の創設にも関わります(大正6年/1917年)。
研究と教育の両輪を、自分の手で組み上げた人でした。
6. 78年での死(1931)
昭和6年(1931年)6月、北里柴三郎は78歳で没します。
晩年も研究所の運営と医学教育に関わり続け、最後まで「学問の独立」を体現しました。
彼が育てた研究機関と弟子たちは、その後も日本の医学を支え続けています。
静かな余韻
北里柴三郎は、ノーベル賞には届かなかった日本人科学者として記憶される一方で、日本の近代医学の土台を作った男でもありました。
新千円札に彼の肖像が選ばれた意味は、おそらくここにあります。
私たちが日々使う千円札の中に、こういう人がひとりいる。
その事実は、ちょっと考えさせられます。
💬 本日のひとこと
> 学問の独立
大正3年(1914年)、北里研究所創設の趣意に込められた信念。
外圧に左右されず、独立した立場で研究を進めるべきだという思想は、現在も北里研究所と慶應義塾大学医学部に受け継がれています。
もう少し深く知りたい人へ
- 小学館版 学習まんが人物館 北里柴三郎 — 新千円札の人物として読み直すと別の景色が見えます
- 福田真人『北里柴三郎 熱と誠があれば』(ミネルヴァ日本評伝選) — 細菌学の最前線で働いた男の生涯を、じっくり追える一冊
調べたら面白かったので、書いておきますね。




コメント