ヨハン・セバスティアン・バッハ ─ 「音楽の父」65年

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ヨハン・セバスティアン・バッハ ─ 「音楽の父」65年

ドイツの音楽家家系、バッハ家の最も偉大な一人。

マタイ受難曲、ブランデンブルク協奏曲、ゴルトベルク変奏曲、平均律クラヴィーア曲集。

生涯ライプツィヒを中心とするドイツの教会音楽家として勤め、20 人の子どもを育て、目を悪くしながら作曲を続けた、65 年の生涯を静かにたどります。


1. アイゼナハの音楽家家系に(1685〜)

1685 年 3 月 21 日(旧暦)、ドイツ中部・アイゼナハ。

バッハ家は7 世代にわたる音楽家家系で、ヨハン・セバスティアンは8 世代目。

父・ヨハン・アンブロジウス・バッハは宮廷音楽家、母・マリア・エリーザベト。

少年時代は不幸が続きました。

9 歳で母、10 歳で父を相次いで失う。

4 人兄弟の末っ子だったヨハンは、長兄ヨハン・クリストフ・バッハ(オルガニスト)に引き取られて育ちます。

兄の家で音楽教育を受けるも、楽譜の入手が難しく、若きヨハンは月夜にこっそり兄の楽譜を写譜したと伝わります。

6 か月かけて完璧に写し終えた楽譜を兄に取り上げられた、という逸話も。


2. 北ドイツ、修学旅行で名手の演奏を聴く(1700〜1707)

15 歳でリューネブルクの聖ミカエル教会聖歌隊員として奨学金で寄宿。

ここで北ドイツ・オランダ・フランスの楽譜に触れ、音楽の幅が一気に広がります。

1700 年代初頭、若きバッハは北ドイツの巨匠ブクステフーデを訪ねるため、徒歩 400 kmを旅する。

4 週間の予定が4 か月に延びてしまい、雇い主から大目玉を食らった逸話があります。

それくらい、ブクステフーデのオルガン演奏は若きバッハに衝撃を与えたのです。


3. ヴァイマール、ケーテン宮廷音楽家(1708〜1723)

1708 年、ヴァイマール宮廷オルガニストとして就職。

ここで「トッカータとフーガ ニ短調(帰属には議論もある)」など、有名なオルガン曲が次々と生まれます。

1720 年、最初の妻マリア・バルバラが急逝。

バッハは旅行から帰宅した際、すでに妻が埋葬済みであったという衝撃を受けます。

4 人の子を残された彼は、翌年アンナ・マグダレーナと再婚。

彼女との間にさらに 13 人の子をもうけました(生涯で計 20 人の子のうち、成人したのは 10 人)。

1717 年から 1723 年はケーテン宮廷楽長。

レオポルト侯はカルヴァン派で教会音楽を必要とせず、バッハは世俗音楽に専念できました。

この時期の名作 ──

  • ブランデンブルク協奏曲全 6 番(1721)
  • 無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ
  • 無伴奏チェロ組曲
  • 平均律クラヴィーア曲集 第 1 巻(1722)

4. ライプツィヒ、トーマス教会カントルとして(1723〜1750)

1723 年、ライプツィヒ・トーマス教会カントル(音楽監督)に就任。

これは当時のドイツで音楽家として最も名誉ある職の一つでした。

ライプツィヒでは ──

  • 4 つの主要教会の音楽すべてを担当
  • 毎週日曜のためのカンタータを作曲(合計 200 曲以上)
  • トーマス学校の音楽教師
  • 大学の音楽コレギウムの指導

働きすぎな生活でした。

それでもバッハは、毎週新しいカンタータを書き、写譜し、リハーサルし、本番で指揮するというサイクルを 27 年続けます。

代表作 ──

  • マタイ受難曲(1727 初演)
  • ヨハネ受難曲(1724)
  • ロ短調ミサ曲
  • クリスマス・オラトリオ

5. ゴルトベルク変奏曲、晩年のフーガの技法(1741〜)

1741 年、ゴルトベルク変奏曲完成。

不眠症のロシア駐在外交官ヘルマン・カール・フォン・カイザーリンク伯爵のため、専属チェンバロ奏者ゴルトベルクが演奏する用に書かれた、と伝わります。

バッハの鍵盤音楽の到達点と評されています。

最晩年、バッハは対位法の集大成として 『フーガの技法』を執筆。

これは「バッハ自身の音楽の遺言」と呼ばれます。

未完のまま終わりますが、最後のフーガには「B-A-C-H」(B♭・A・C・B)の音符で自分の名前を音楽に刻み込んでいました。


6. 65 年の生涯(〜1750)

晩年は視力が悪化。

1750 年、英国人眼科医ジョン・テイラーによる白内障手術を 2 回受けるも失敗。

完全失明状態で衰弱し、1750 年 7 月 28 日、ライプツィヒで永眠。65 歳。

葬儀は質素で、埋葬場所も長らく不明。

ライプツィヒ・聖ヨハネ教会の共同墓地に埋葬されたとの記録があるのみ。

死後、バッハの音楽は 100 年近く忘れられました。

バロック音楽は時代遅れと見なされ、息子たちのギャラント様式(C.P.E. バッハ・J.C. バッハ)の方が当時人気だったのです。

転機は 1829 年。

フェリックス・メンデルスゾーンが 20 歳でマタイ受難曲をベルリンで再演したことで、バッハは復活。

これ以降、バッハは「西洋音楽の父」として地位を確立しました。


静かな余韻

「私は努力してきた。同じくらい努力すれば、誰でも私のようにできるだろう」

息子カール・フィリップ・エマヌエル・バッハが後に語った、父バッハの言葉。

「天才ではなく、努力」── これが彼の信念でした。

実際、バッハは生涯で 1,128 曲(BWV 番号で確認できるもの)を残しました。

ライプツィヒ時代、毎週日曜に新しいカンタータを作曲・指揮・演奏する生活を 27 年。

これを「天才のひらめき」だけでは絶対に達成できません。

そして 100 年後にメンデルスゾーンが再発見するまで、バッハの音楽は 「地方の音楽家」として埋もれていた。

今、ピアノ教室で子どもが弾くインヴェンション、結婚式で流れるG 線上のアリア、葬儀で流れる主よ、人の望みの喜びよ ── すべてバッハです。

「生前評価されなくても、続けた人」の代表格として、彼の生涯は今も励ましになります。


💬 本日のひとこと

「私は努力してきた。同じくらい努力すれば、誰でも私のようにできるだろう」

バッハの謙虚さの言葉。

1,128 曲書いた人がこれを言えるのは、本当に毎日コツコツ作曲し続けたからこそ。

「天才」は、続ける人の別名なのかもしれません。


もう少し深く知りたい人へ

調べたら面白かったので、書いておきますね。

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